最晩年の親と仕事を両立することができるのか?仕事を辞めた結果。

社会

晩年の親と仕事の両立

親に重大な死に関わるような病気に際に仕事をしていると、このまま自分は仕事を続けるべきか?否か?という問題にぶち当たります。仕事を辞めて残り少ない親との時間を持つべきか?このまま仕事をつづけるべきか?を考えます。現状の生活が安定していれば、仕事を辞めることはないだろうと思うのが普通かもしれません。

晩年の親への想い

しかし、親の晩年、死に目に逢えない、親の死にざまを見られないのは、自分の後半生で絶対に後悔するのではないのか?と思う。親の晩年、死を直視できないろくでなしではないだろうか?今まで散々親に苦労をさせて、学校費用やその他もろもろに金を出してもらい学校に行けた。衣食住が不自由なく生活できた親のおかげで生きることができて今現在がある。もし見放されていれば、死んでいたかもしれない?もしくは、誰かに拾われていたかも?もしくは孤児院に入っていたかも?

そんな親に苦労をさせてきたはずだ。それなのに、お世話になった親の晩年、死に際に親と過ごす時間を共有できないなんて、それは親不孝でもあり、その後の自分の人生への懺悔でしかないでしょう。私は仕事を辞めていた。そして両親の後半生、死に際で同じ空間で接することができた。親の意識があるうちに時間を共有することができた。今考えても、仕事など辞めて親を選択したことは間違いではないと思っている。

当時自分に問うたのです。仕事と親のどちらを選ぶのか?結果、親を選んだ。仕事なんてどうでもいいと思った。親の死に際は、それは見てられないですね。元気な頃の親のイメージと、目の前にいる親とのギャップはぬぐえないものです。目の前にいる親は、癌と糖尿病というWの病で、もう医者がさじを投げた状態だった。その末期状態で、食えない、飲めないという状態だった。そんな骸骨のようなった親を見て、仕事を辞めてよかったと思った。

自分が自分の死期を知っていた

病院で見放され父が一番よく自分の状態を知っていた。その言葉は「今日も生きていた」と言っていた。ガリガリにやせ細り、背骨の痛みをこらえていたのだろう。あの最期の悟りを開いた境地の顔は忘れない。笑うでもなく、泣くでもなく、怒るでもなく、ただ宙を無表情で見つめていた。死に際の親を見るということは、つらいですが、仕事は何度でも変えることができますが、親の死は1回しかありません。私もいずれ死にますが、死に向かって生活している。親の晩年は一緒にいることがつらくなります。しかし生きる者と死にゆく者が向き合うのは、正しい死生観ではないでしょうか?

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